黒田博樹 公式ホームページ『kuro18』

道

06年のFA騒動・メジャー移籍等でカープファンのみならず多くの野球ファンを魅了 した一人の野球選手、黒田博樹。

球界に多くいるスター選手のように学生時代から華々しい道を歩んできた訳ではなかったが、野球に対する真摯なまでの姿勢と、ひたむきな向上心、そしてある時は反骨精神を持ちながらあきらめずに続けることで“球界を代表する投手”と言われるようにまでに成長した。

このコーナーでは、彼がこれまで歩んできた野球人生を彼自身の言葉で語って貰った。

【広島入団】1996年〜1997年

—  ドラフト
その頃はプロ野球に対してファンとしての意識はまったくなかった。プレー面で細かいところは見ていたが、大阪だから阪神ファンということもなかったし、特別応援している球団や選手もなかった。これからずっとやっていく職業として考えていたので、望んでくれるならどの球団でもよかった。
いくつかの球団から話を聞き、当時の監督や親に相談したが、結局一番高く評価してくれた球団に行くのがベストという結論で、上位指名を約束してくれた広島カープを逆指名し、入団する事になった。
—  広島のイメージ
その頃は北別府投手などが活躍していて「投手王国」と呼ばれ、常に優勝争いをしている強いチームという印象だった。
—  ライバル
同期に青山学院大学から入った澤崎投手がいて、新人賞やセリーグのMVPを獲得。大学時代、同じリーグの青山学院大学で優勝も経験していたし、同じ逆指名で入ったといっても凄く差を感じていた。澤崎のほうがレベルは上だと感じていたし目標としていたが、プロに入って同じ土俵に上がる限り、負けたくないという気持ちはあった。
—  デビュー
ジャイアンツ戦で当時の三村監督に本当にいいところで投げさせてもらい、同期の松井(秀喜)選手から三振を取り勝てたというのは凄く嬉しかった。
この頃はまだプロの怖さもわからずに、ただめいっぱい投げているだけという感じ。逆に言えば失うものがなく、余計な事を考えずに投げていた記憶がある。

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【プロの壁】1998年〜2000年

2年目のジンクス  —
プロに入り、1年目は6勝し規定投球回数も達成することができたが、2年目のキャンプ中に肘を故障。1年目に6勝したことで、これでプロでやっていけると甘い考えで慢心していた部分があり、そのことによる気の緩みは確かにあったと思う。3年目、4年目は1軍と2軍を行ったり来たりで、20点も取られた試合もあり、自分でもどこかこのままではいけないという気持ちでいた。
挫折感  —
挫折というのは一度でも結果を残した人が感じることができる思いで、この時、僕自身はまだ何も結果を残せていなかったので、自分の力不足という現状をただ受け止めるしかなかった。今から考えると、この時期は単に「自分で投げたい」という気持ちだけで、目標の設定やモチベーションの持ち方がうまくできていなかった気がする。
達川氏の言葉  —
<この頃2軍監督だった達川氏に「お前は絶対に2億円プレーヤーになる」と断言される>

達川さんはそんなこと言ったことを覚えていないだろうけど(笑)、正直自分ではピンと来なかった。ただそう言ってもらえたことは励みにはなった。
日本代表  —
<1999年に第14回インターコンチネンタルカップで日本代表に選ばれ2勝を上げる>

日本代表といってもただ各チームから2人ずつ選ばれるということだったのでピンとは来なかった。それもチームの「代表」ではなく「有望」選手。どうせ選ばれるなら誰もが認める選手にならないと意味がないと思っていた。
長嶋氏の評価  —
<この頃長嶋監督から「上原よりも上のセリーグNo.1のピッチャー」と評価される>

自分自身では実際そういう感覚はなかった。1年目に勘違いしていたという思いがあったので、少しぐらい勝てたとしても天狗にならず地道にやっていこうという気持ちだった。4年目は9勝6敗だったが、この時はまだ訳もわからず、投げたらたまたま勝ったというだけで、自分の中で自信にはつながっていなかった。

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【広島のエースへ】1993年〜

—  母の死
5年目の26歳の時に結婚。そして翌年母を癌で亡くしたことが精神的に大きな転機になったと思う。
母の病気が悪くなり気が気ではなく、その中でシーズンを戦うことが苦しかった。また、その年の前半に腰を痛めて2ヶ月ぐらい投げられず、母を励ますこともできずに自分自身も本当に辛い時期だった。結局6月に母は他界したが、その前の5月下旬に広島球場で復帰でき、ジャイアンツ戦で1-0で完封勝ちした。それが母が最後に見た試合だった。試合後僕に「ありがとう」と伝えておいてと言っていたと聞いた。
母は小さい頃から怒ると父親以上に厳しかったが、プロで活躍することを凄く喜んでくれていたし凄く楽しい母親だった。
(話を聞く中で、この話が回想シーンとして、本人にはとても大きな転機になったと思えた。看病が身近に出来ないストレスと、自身が仕事を全うするのが、母が喜ぶ事と考え、故障も抱えながら投球を続けた。
大阪の公立高校の教員を長年勤められていた実母は、生徒にも、教員にも非常に親しまれていたようで、葬儀の際は学校の職員、生徒が授業中にも関わらず、全員校内のグランドに出てきて、棺を見送ったという。この実母の死が、その後の黒田投手の精神力の強さに繋がった感じがした。)
—  変化
母が亡くなった後は、立場的にもチームの中心的な選手という自覚もあったので野球に集中しようとしていた。また、僕が投げることで父親たちを励ましていこうという思いや家族の大黒柱という自覚も強く出てきた。自分だけでなく、家族を看病しながら仕事もしないといけない人たちとも共感できればいいと思う。
—  開幕投手
<5年目、6年目と2桁勝利を上げ、2003年、佐々岡投手から開幕投手の座を奪い取る>その前の2年間は2桁勝っていたので、僕がやらなければいけないと言う気持ちになっていたし、ピッチャーをやる以上は何か頂点を目指したいとも思っていた。 開幕投手をやって勝ってはじめてエースと呼ばれる存在になれると思っていたし、そういう意味で凄く意識はしていた。シーズン最初のゲームでマウンドに上がるプレッシャーを感じたが、勝ったときの充実感や満足感はそれ以上。この年は13勝した。

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